江戸時代 新加納は中山道の立場

道標、カギ型などの街路は今も残る

加納宿と鵜沼宿の間

 中山道は江戸の日本橋から京三条大橋までの、約532Kmで、この間に六十九(草津から東海道に合流、六十七宿が中山道)の宿場が設けられました。岐阜県内は落合宿から今須宿までで美濃十六宿といわれます。そのうちの鵜沼宿から加納宿までの四里十丁(約十七Km)間に新加納は位置し、両宿のほぼ中間です。まさに「間の宿」です。
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宿場は一里(4Km)から二里の間隔が普通ですが、鵜沼、加納宿間は、中山道では二番目に長い間隔です。これは多分この間は地形が平坦で通行しやすく、また、各務原台地は水が得にくいため居住に適さなかったからでしょう。

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新加納に立場(たてば)

 立場は、宿場間に通行する人や馬が休息するために設けられた施設です。幕府が十九世紀初期に作成した中山道分間延絵図の新加納村に、立場の文字が一里塚の東に記されています。
 立場がいつ頃から設けられてかわかりませんが、宝暦六(1756年)の「木蘇路安見絵図」にも一里塚に隣接して立バがあります。新加納の他に各務原台地には、六間茶屋と二十間茶屋が地名として記され、中山道筋で湯茶の接待がされていたようです。
 分間延絵図作成のために享和元(1801)年に新加納周辺の村々が書き出した事項の中に、「往還立場、更木新田煮売茶屋渡世仕候」とあり、更木新田の位置は不明ですが新加納の立場では煮売茶屋が営まれていると記されています。
 天保十二(1841)年の史料に、煮売茶屋の営業を差し止められた新加納村「梅村屋」仁兵衛と利兵衛の営業再開を加納、鵜沼両宿問屋などの連名で新加納陣屋へ陳情したものがあります。これから新加納立場では軽食堂(立場茶屋)が通行する人々に便宜を供していたことがわかります。しかし、幕府は、原則として宿場以外での宿泊、飲食の営業を認めず、度々禁令を発しており、この時の差し止めもそれに従ったものと思われます。

一里塚と松並木

 幕府では道中奉行を置き、五街道などの幹線道路や宿場の管理に当たらせており、そのひとつに沿道に一里塚を築き、松か榎木を植樹しました。新加納には、榎木が植わっていましたが今は痕跡もありません。(ふれあいバス新加納南亭留所の横に標柱が立つ)
 また、人家の途絶えた街道の両側には松並木が造成されているのが絵図からわかります。松並木の一部は昭和二十年代初めまで新加納の東西に残っていました。 幕府はこれらの維持、管理は街道の清掃、補修などを沿道と近隣の村々に割り当てており、村人が行いました。
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石の道標

 今尾医院の東側の路傍に「左木曽路、右京道」と刻まれた石の道標があります。江戸時代のものと思われますが、いつの間にか所在不明となり、戦後発見され、割れ目を補修して現在地に建てられました。石の道標としては小ぶりですが中山道を案内しています。 中山道は木曽路(岐蘇路)とも呼ばれ、京道は江戸と京都を結ぶ街道であったことを示しています。

旗本坪内陣屋と新加納

 慶長六(1601)年、関ヶ原の戦いの翌年に坪内利定は四人の息子と各務郡で6533石の領地を賜り新加納に陣屋を築きました。
 新加納は各務原台地が西方に突き出した先端部に位置し、台地の北と西と南の崖下には水田が広がり防御性の高い地形になっています。戦国時代には織田信長の美濃攻めで新加納は軍勢の前進基地として利用されており、さらに関ヶ原の戦いの前哨戦として行われた米野の戦いでは、木曽川を渡河する徳川方の軍勢に対して、石田方の佐藤方政(美濃市上有知城主)の軍勢がここに陣を構えました。
 かって木曽川は、各務原市稲羽地区から岐南町、笠松町にかけて流れていました。江戸時代以降に堤防が整備されるまで、流路が網の目のように入り組んで舟運が発達するうとともに、美濃と尾張を結ぶ街道の渡河地点でもありました。こうしたことから新加納は木曽川を望む高台の戦略拠点として重視され、陣屋が置かれたと考えられます。
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平成23年4月号 発掘調査で歴史が見えた 新加納旗本坪内陣屋跡 1ページ目|各務原市-2.jpg

 明治初年の絵図によると、坪内氏の新加納陣屋は、約120m四方の広さで東に表門を配置し、周囲には堀と土塁がめぐらされていました。
 また、陣屋の東側には「目」の字状に道路が配されて計画的な町割が行われ、北東に日吉神社、南東に法光寺、北西に坪内氏の菩提寺である少林寺、善久寺、されに南西には東光寺(明治時代に移転)と、町の四方を神社仏閣が押さえて城下町的な町づくりが行われています。
 坪内氏は約六千石という旗本の中でもトップクラスの石高を有しており、江戸時代を通じて木曽川と中山道の要衝である新加納に陣屋をおいたことがこうした町づくりの背景になったと考えられます。